学校法人 加計学園

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加計学園について

理念・ミッションステートメント

ひとりひとりの若人が持つ能力を最大限に引き出し技術者として社会人として社会に貢献できる人材を養成する

ミッションステートメント

加計学園は、全ての人が生涯にわたって学べる「教育の場」を提供し、
教育を通して科学する心を育み、調和のとれた人格と国際性を涵養することによって、
世界の平和に貢献できる人材を輩出する。

創立者・加計 勉の足跡

加計 勉

加計学園創立者の加計勉は大正12年3月27日、広島県賀茂郡三津町(現・東広島市)で、10人きょうだいの末っ子として誕生しました。親族には教育者が多く、加計勉も広島文理科大学(現・広島大学)広島臨時教員養成所・数学科を出て教員の道を歩みました。そんな加計勉に大きな影響を与えたのは戦争でした。特に原爆で焦土と化した広島を目の当たりにした時に「日本の復興は教育しかない」と考え、一念発起して広島文理科大学に入学します。そこで直面したのは国立大学の「融通が利かない縦割り」の体質でした。加計勉は次第に「本当の教育は私立でなければできない」「自分が理想とする大学をつくりたい」と考えるようになっていきました。

教育事業で最初に手掛けたのは教育出版事業でした。ところが手ひどい失敗を喫します。無一文となった加計勉に救いの手を差し伸べたのは大学時代の恩師でした。その紹介で、相互銀行から融資を受け、昭和30年に開校した進学予備校・広島英数学館が大成功を収めてからは急展開します。昭和35年に岡山予備校を開校。翌年、水島コンビナートの開発に合わせて学校法人加計学園を設立し、現在地の半田山に岡山電機工業高等学校(後の岡山理科大学附属高等学校)を開校しました。昭和39年、念願の岡山理科大学を開学しました。41歳でした。西日本で初の理学部単科大学で、1期生は応用数学科71人、化学科72人でした。

新設する大学の学部・学科構成には加計の強いこだわりがありました。まず「日本の高度工業社会を支えていくには技術者の養成が急務である」とし、「当時の国立大学に設けられているような理学部ではなく、できれば応用理学部というようなものにしたいと思っていた」。既存の枠を越えた教育研究に取り組む「学際領域」。この領域こそが加計の考えた「リベラルでアカデミックな大学」の真骨頂でした。理学部にこだわったのは、自身が理学部出身で事情が分かっているフィールドから「学際」で領域を広げていこうと考えたためでした。
背景には広島英数学館設立当初から掲げていた「ひとりひとりの可能性を積極的に肯定して、その持つ能力を最大限に引き出す」という教育方針があり、その「建学の理念」は今でも変わっていません。
 
大学運営にもこだわりがありました。「校舎はどうでもいいんだ。いい先生といい実験道具さえあれば」。加計の口癖でした。その言葉通り、国内でもトップクラスの電子計算機や電子顕微鏡などを、惜しげもなく次々に購入しました。「出来立ての小さな大学だけど、自由に研究させてもらえるぞ」という評判は研究者の間で、またたく間に広がっていきました。
昭和49年には大学院理学研究科修士課程、その4年後には博士課程(後期)を設置しました。昭和61年に工学部、平成9年には初の文系を含む総合情報学部と、フィールドを拡大していきます。この間、昭和42年には学校法人高梁学園(現・順正学園)を設立し、順正短期大学、順正高等看護専門学院を開校するなど、学園はグループとして大きく発展していきました。

また、「教育」とともに加計勉が大切にしたのは「国際交流」でした。「世界各国と仲良くしていかなきゃならない、それが世界平和につながる」と考えたからです。昭和54年に米国ライト大学と教育交流協定を締結したのを皮切りに現在では19カ国・地域の69校、3研究機関にまで増えています。毎年夏期・春期には海外研修を行っているほか、英語研修プログラムも実施。米国とブラジルからは毎年、研修団が来日しています。

数多くの夢を実現して、加計勉は平成20年4月30日、85歳で永眠しました。